世界は巨大な味噌汁のなかに
小さい頃から窓ガラスを流れる雨粒だとか,
お好み焼きにふりかけた鰹節の踊る様だとかを見るのがとても好きだった.
中でもとりわけ大好きだったのが、熱い味噌汁の中で味噌の動く様子を眺めることだ.
水面に向かって浮き上がった味噌が、広がりながらまた沈んでいく様子は,
なんだか生き物のように感じられてとても面白かったし,
なんなら今でも見入ってしまう現象である.
そしてこれと同じような感動を,ここ数年乗る機会が多くなった飛行機で味わっている.
今回は味噌汁にみる”世界”の繋がりについて考えた内容について綴っていこうと思う.
1.”流れ”という動きの不思議
前述した”味噌汁の中の動き”の正体は,温度の違いによって発生する”対流”と呼ばれる現象である.
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「鬼滅の刃」の重厚さはどこからくるのか
前にセッションという映画を借りて家で観た時,
劇場で観なかったことをとても後悔した.
そして今,「鬼滅の刃」という作品に同じ気持ちを抱いている.
物語の重厚さ,キャラクタ造りの巧みさに感動してしまった.
今回は全巻一気に読み込んで深く感動した点を,
自分なりに分析しながらまとめていこうと思う.
ちなみに物語の展開について触れる部分もあるので,
そういうのやめて!という方は星をつけてから別の記事を読んでいただきたい.
1.鬼滅の刃とは
時は大正時代.
炭作りを営む小さな家に暮らす少年 竈門炭治郎は,母親と兄弟を人を喰らう”鬼”に襲われ失ってしまう.
唯一息のあった妹 禰豆子を助けるため彼女を連れて山を下るが,
傷口から鬼の血が入ってしまった禰豆子は鬼と化してしまう.
妹を人間に戻すため,人を殺す鬼を滅するため,
炭治郎は鬼の大将・鬼舞辻無惨に挑む・・・
というのがだいたいのあらすじである.
かっちりとしたあらすじは単行本の人物紹介の所に書いてあるので,
とりあえず買って読んでみてほしい.
気がついたら最新刊まで買っているはずである.
昨年アニメ化され,新刊が書店から消えてしまうなど
もはや社会現象となっている作品である.
2.時代と対立構造のうまさ
まずすごいな,と思ったのは”大正時代”という時代設定である.
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にんじんの皮むきに見た人類の闘い
お題「#おうち時間」
人も生き物である以上、何か食わねば生きて行けない。
そして人類が誕生してから長い歴史の中で“料理”という概念が生まれ、
我々は“食べる”という行為に楽しさを見出せるようになった。
まさに、見た目、香り、味覚という要素で一度に3回楽しむことができる偉大な発明である。
すごいぞ人類。
しかし、料理には自分のような料理原人が最初にハマる落とし穴がある。
それこそが、皮むきや種を取り除くといった食材の前処理である。
この前処理をいかに(ズボラでも)素早く、可食部分の無駄を出さずに済ませることができるか。
今回はにんじんの皮むきに感じた、ズボラさを追い求める人類の技術について綴ろうと思う。
1.にんじんを手に取るまで
先にも述べたとおり、自分は料理するという行為を今までサボってきた人間である。
自炊すっか、と思って作るのは、
キャベツ・玉ねぎ・肉(ソーセージ)を使った以下のものくらいである。
- 炒め物
- 麺つゆで全部いっしょくたに煮た、自称シメのうどん
- うまかっちゃんぽんめん
※うまかっちゃんとは・・・素晴らしい食べ物である。
https://housefoods.jp/products/special/umakachan/index.html
煮る・焼くで解決できる料理とコンビニ弁当で命を繋いでいる。
いわば、料理原人である。
こんな原人でも、この家で過ごす時間が増えた機会を利用して、
何か新たな風を吹かせたいと思ってしまったのである。
緑、白、茶色で構成された食事に、何か彩りを加えたい。
そんなわけで、僕はスーパーでにんじんを手に取ったのである。
2.初めての皮むき
無計画ににんじんを手にとったものだから、当然ピーラーなんていう便利な道具などない。
いけるやろ、と思い包丁を使って皮むきを行ってみた。
この時に参考にしたサイトがこちらである。大変下調べに役立ったので、ぜひ皆様にも活用していただきたい。
味の素さんありがとう・・・
https://park.ajinomoto.co.jp/recipe/basic/vege_handling/
包丁を使う場合、りんごと同様に食材を回転させて皮を剥くのが推奨された方法である。
しかし、僕は料理原人。りんごだって剥かずに食べる。
包丁を一定の角度に固定して、一定の力でにんじんを回転させることがとても難しく、
1本目の半分もいかないところで心が砕け散ってしまった。
そこで、ピーラーと同様に包丁をまっすぐ動かすイメージで皮むきを試してみた。
中国の刀削麺スタイルである。
一見楽に思えたこの方法だが、実は大きな落とし穴があった。
皮の厚みを均一に薄く剥くためには、具材に対して包丁の角度が一定でなくてはならない。
包丁を動かすたびににんじんを抉る方向に刃が動いてしまい、
みるみるうちに6割のにんじんが出来上がった。
すっかり痩せてしまったにんじんに申し訳なさを感じながら、
僕は翌日ピーラーを買いに行くことを心に決めた。
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ブレーメンに寄せた絵と時間表現の考察
お題「#おうち時間」
緊急事態宣言が発令されてから,
数々のライブやイベントが延期・中止になった.
そんな中で,アーティストが過去のライブ映像やMVをYouTubeに公開する
動きが,国内外問わずに広がっている.
そして,自分が敬愛するバンドの一つであるくるりが,
あるライブ映像を公開した.
5分とちょっとの時間で,間違いなく幸せなその光景に,
思わず喜びの涙を流してしまった.
辛い時に聴く優しい音楽は,ここまで心に染み入るものなのだ.
あまりにも深く感動してしまったので,
この曲から得たイメージを絵に描いてみることにした.
描いたのは,
落雷で壊れた小屋から人々が帰りだし,
その跡地に誰にも気づかれないで奇跡のバラが咲いている.
小屋の跡からオルゴールを持ち帰った人が,
蓋を開いてそのメロディを聴き始め,
少年の故郷の歌が広がっていく.
渡り鳥は青い空をまっすぐに飛んで行き,
夕暮れの街には雨を降らせる暗い雲が近づいている.
という情景である.
今回はこの絵を描くにあたって行った,
時間経過の表現に関する実験の結果と考察について書こうと思う.
1.ブレーメンという楽曲
西欧の雰囲気を湛えるこの曲は,
とある少年のことを優しい旋律に乗せて伝えている.
叙事詩のように展開していくこの曲の魅力は,
この歌詞の一部分を切り出すだけでは十分に表せないと思った.
そこで,時間経過を1つの画面に閉じ込める方法について検討した.
2.時間経過の表現方法について
時間経過の表現として思いついたのは,以下の二つである.
- 絵巻物のように左右どちらかに向かって時系列が進む表現
- 手前,奥行きに向かって時間が連続する方法
1 は画面が横長になってしまい,一目で全体を見渡すことができない.
なので,
1 と 2を組み合わせて奥行きに向かって時間が進むように画面を構成してみることにした.
演劇の異なる場面を一つのキャンバスに収めた作品が確かあったはずなのだが,
恥ずかしながら絵画の名前が思い出せない.
お優しい方,教えていただけるとありがたいです.
この絵では,曲のストーリーを表現しながら,
・画面奥行きへの時間経過
・光源の当たり方が違うもので構成される画面
について実験している.
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ヒゲのある暮らしを1ヶ月続けた大まかな結果と考察
お題「#おうち時間」
生まれて初めて、ヒゲと1ヶ月近く暮らしている。
最近、ビデオ通話でワイルドやんと言われるくらいになってきた。
Unofficial髭フォービスムである。
今回は1ヶ月続けたヒゲの観察と、心持ちの変化を
めちゃくちゃ大雑把にまとめてみようと思う。
1.事の始まり
もともと鼻炎持ちで、2月の終わりくらいから症状が出ていたので
マスクを着けて通勤していた。
昼食時や鬱陶しく感じる時はマスクを外していたので、その時期はツルツルのアゴで出勤していた。
そして3月に入って新型コロナウイルスの流行が始まり、
職場でマスクを外せなくなっていった。
どうやらその時にムレてしまったらしく、
吹き出物が出てしまいヒゲが剃れなくなってしまったのである。
まぁマスクで隠れるしいいかと思いつつ、続いていくヒゲを剃れない日々。
徐々にコソ泥みたいになっていく口周り。
“このまま行くと、どんな感じになるんだろう?”
コソ泥の先を見てみたい。
それがヒゲと暮らし始めたきっかけだった。
2.生え始め〜2週間目まで:コソ泥期
ヒゲはアゴの輪郭に対して鉛直に伸び、パッと見でアゴが外側へ拡張されたような印象になった。
短いトゲの多いサボテンを想像してもらうといいかもしれない。
下唇をひっくり返すとザラザラ・チクチクというような感触がある。
あ〜、剃ってないなぁ、生えてんなぁといったような気持ちで、
まだヒゲと暮らしている感覚はない。
鏡に向かえばコソ泥がいる時期である。
ちなみに、自分の生え方は口ヒゲとアゴヒゲが繋がり頬にも点々とするタイプである。
伸ばすヒゲは口ヒゲとアゴヒゲのみとして、そのほかのヒゲは定期的に剃ることにした。
続きを読むこの世界の片隅に
シン・ゴジラ、君の名は。に続き、「この世界の片隅に」という映画も3回観てしまいました。
僕は戦争映画をあまり見たことはありませんが、今まで観てきたものは
・何か大きな悲劇が襲い、そこからまた立ち上がっていく
というような内容のものが多いように感じます。
が、この映画において、すずさんを含む登場人物は皆至って普通です。
冗談に笑うこともあれば、小言にうなだれることだってあります。
度々繰り返される空襲警報に、いい加減うんざりといった様子も描かれています。
戦争の事を話す会話の緊張感も「あそこは大変みたいだよ」程度で、義憤に駆られるような素振りも、アメリカがどうのこうのということも出てきません。
あくまで、当時普通だった日常が描かれていきます。
(かなり細かく取材してあるようで、実際にその時代を知る方々が懐かしがるほど普通です)
だからこそ、戦争の状況もよく分からないまま、気がつけば自分の住む場所が巻き込まれていくことの怖さを感じました。
「戦争」の部分が他の言葉に置き換われば、今現在と通じるような近さを感じた分、余計にそう感じてしまったのかもしれません。
あと、絵についてですがいろんな動作がとても自然です。びっくりするぐらいに自然です。
画用紙に絵を書くときの絵の具の滲み具合、字を書くときの手の動き方、荷物の背負い方などなど。
しかも、場面場面によって妙にすずさんが色っぽかったり、かっこよく見えたりと、表情をたくさん発見できました。
そんな絵の効果もあってか、3回観終わった後もなかなかじんわり来てしまって仕方ありません。
大仰に感動できるとか、泣けるとかではない、でも何故かふと観たくなってしまう映画だなぁと思います。
大勢のお客さんと一緒にクスクス笑いながら観るもよし、人の少ない時間帯にしんみり観るもよし。
いろんな観方がある、不思議な作品です。
映画:シン・ゴジラ
虚構 対 現実 (日本対ゴジラ)というキャッチコピーの通り、
”もし現実の日本にゴジラが現れたら”というコンセプトで作られたゴジラ映画です。
とんでもない一作でした。素晴らしい作品だと思います。
ゴジラのような巨大生物に対してどのように対応するのかを入念に取材されている分、
会議の進行もなんだか説得力のあるものになっているように感じました。
アクアライン崩落から前半、政府の対応がもどかしくなるほど後手後手なのもリアルです。
そこにいるのはゴジラなんだよ!半端ないんだよ!なんていうことを思いながら、
早くこんな政府に目にもの見せてやれゴジラ!と期待していました。
そして、第2形態のゴジラが蒲田へ上陸します。
えぇ、エラある!
目ぇグロい!
血ぃめっちゃ吐く!
異様でいて、死ぬ気で探せば本当にいそうな生物感に気圧され、
道路を這いずり回る様子に慄く中、ゴジラは第3形態に進化します。
そして、聞いたことのあるあの鳴き声!
興奮しましたが、まだ予告で見た姿とはかけ離れています。
まだ人がいるマンションをお構いなしになぎ倒しながらそれは進んでいきますが、
一度海に戻って行ってしまいます。
そこで政府は自衛隊と共に再上陸時の対策を立てます。
この映画で大きな役割を持つ、”巨災対”もこのタイミングで設立されます。
巨災対での場面には、ティンパニを使ったあのBGMが多く流れます。
さぁ反撃だ!という勢いに乗せられた場面です。アツい。
そして、みんな頑張ってる、いけるぞと士気が高まった時、
第4形態になった、CMでよく見た姿のゴジラが登場します。
ここでも、また想定外です。
第3形態のゴジラに対応できるように立案された作戦も、全く歯が立ちません。
それどころか、ゴジラの意に介していない様子です。
武器を全て使用できる自衛隊が全く歯が立たない様子を見ているうちに、
”過去の作品で親しまれたゴジラ”ではなく、
”凄まじい力を持ったゴジラという名前の何か”を見ている気持ちになりました。
自衛隊の作戦も失敗し、東京の中心で米軍の爆撃機による支援攻撃が始まります。
爆弾を背に受けて鳴き声をあげるゴジラが背を丸め、
避難用のヘリポートで政府の大臣たちが歓声を上げます。
そして、第5形態に進化したゴジラの背びれが紫色に発光し始めます。
悲しげな音楽の中、ゴジラの口が開き、顎が二つに分かれ、喉の奥から光がせり上がります。
ロケットの点火直後のような煙を吐きだし、その次にビル街を飲み込む火炎を吐き出します。
火炎はジェットエンジンのような音と共に光線に変化し、
大臣を乗せたヘリもろとも東京を火の海に変えてしまいます。
やった!ついに熱線を吐いた!というような高揚感はなく、ただただ画面を眺めていました。
残酷なほど強力な熱線を吐き出すまでの過程が素晴らしすぎて、ただ感動していました。
目も潤みました。
大きく分けて、ここまでが前半の話になります。
東京を焼け野原にしたゴジラに対し、政府がどう対応していくのかは後半になるのですが、
ここからは”現実にかなり近いけどフィクション多め”の展開になっていきます。
後半の話はさておき、2回見て思ったことを少々書きます。
終盤のセリフに出てくる”スクラップアンドビルド”は、この作品全体の流れを表したものだと感じました。
この映画の中では、常識が覆され、現実的な最適の作戦が破られ、政治的なシステムが壊されますが、
生存した人々によりそれらは再建され、状況に対応できるように変化していきます。
そして同様に、”ゴジラ”というものについていたイメージをぶち壊し、
この時代に適合した”ゴジラ”が見事に作り上げられています。
評論家の方々を悪く言うわけではありませんが、影響を強く受ける子供時代にヒーローであるゴジラに親しんだ世代には、受け入れ難い内容であると思いました。
さらに、綺麗なテンポでの展開のためにやりすぎなくらい説明・描写が省かれているため、
ゴジラと日本という主軸に絞って話を追うことができました。
しかし、少ないカットの中に詰め込まれた情報の量が尋常ではないため、何度観ても何か見落とした気分になってしまいます。
「あそこああだったよね!」「マジで!」
というやりとりが尽きなくなってしまうのです。ほんの少ししか写ってないのに、
「あれ、こんな人も出てたの!?」
となる回数も半端じゃないです。
風景や無音といった空白で映画にすっと入り込めた「ちはやふる」とは逆に、
詰め込みに詰め込んだ映像と会話で人を置き去りにする「シン・ゴジラ」ですが、
両者ともに素晴らしく面白い作品だと思います。
いろんなところに散りばめられた伏線のようなものや、あのラストシーンについて、いろいろな場所で左右中立肯定否定様々な意見が飛び交っていますが、
まさに庵野監督が”好きにした”結果、”好きにさせられた”に過ぎず、
その真相は監督の頭の中にしかないと思うと、グワァァ悔しい、答えを知りたい!と思ってしまいます。
僕も自分の好きにした結果、2回観た後パンフレットもサントラも買ってしまい財布が一気に寂しくなりました。
細かいところは文字に起こすのも面倒で、誰かと論争したくなる作品です。